ハナコ・マーガレット・スズキさん コラム

日系ニューヨーカーが体験してきた多文化共生

ハナコ・マーガレット・スズキ Hanako Margaret Suzuki
((一財)自治体国際化協会多文化共生部多文化共生課プログラム・コーディネーター)
(多文化共生マネージャー第23期)
(2013年〜2016年 香川県CIR)

まず、米国・ニューヨークの多文化社会の話題に飛び込む前に、少し自己紹介させていただきます。私はニューヨーク市・マンハッタン区のアッパーウエストサイド(New York City, Manhattan, Upper West Side)で生まれ育った日系二世アメリカ人です。日本人の父と母を持ちながら、2013年夏にJETプログラムに参加するまでは、生まれてから23年間ずっとニューヨークで生活をしてきました。家の中では「日本語」、一歩外に出れば「英語」という生活でした。

日本の国際化に貢献したく来日してもう3年半が経ちます。バイリンガルな外国人として草の根交流、国際経済交流、姉妹都市交流、多文化共生と幅広く日本の国際化施策に携わる機会に恵まれてきましたが、正直に申し上げますと、「多文化共生」「外国人」「異文化理解」というフレーズに違和感を覚えます。これを決して批判的にとらないでください。ただ、ニューヨークで生活しながらはあまり耳にしないフレーズであり、そのような概念すら存在しないような気がします。久しぶりにニューヨークに帰国し、アメリカの知人に私の日本での活動を話すと「へぇ〜、日本ではそんな取組があるんだ」と言われます。

この違和感の根源を私なりに探ってみますと、ニューヨークでは生活上「多文化共生」や「異文化理解」が当たり前すぎて、空気のように存在しているからだと思うようになりました。そして、外国人もたくさんいるため、とても身近な存在であると同時に、普段の生活ではあまり国籍にこだわることがありません。要するに「我が国」と「外国」の境目が常識的に日本よりも薄いような気がします(それが良いか悪いかは個々お考えがあることでしょう)。

例えば、日常的な多文化共生の一例として、私と幼なじみのアディー(Adi)との出会いの話を挙げたいと思います。2歳の私とアディーは家の近所のリバーサイド公園の砂場でたまたま出会い、一緒に遊んでいました。アディーはお父さんお母さんがイスラエル人なので、おやつに「マッツァ」というユダヤ教のクラッカーにチョコレートを塗ってパリパリと食べていました。私は海苔を巻いたしょうゆ味の「あられ」をポリポリと食べていました。しかし、お互いに相手のおやつが気になり、仕方がありませんでした。そこで、少し交換することにしました。そうしたら相手のおやつの美味しさに驚き、その日から互いの家を行き来するほど仲の良い友達になりました。アディーの家ではイスラエルの家庭料理、私の家では日本の家庭料理と、日々「国際交流」を自然にしていました。アディーの家の中に充満するスパイシーな香りは今でも懐かしいです。私はこのようにアディーのおかげでイスラエルという国やユダヤ教という宗教のことを学ぶだけでなく、実際に触れることができました。

私の親は日本人、アディーの親はイスラエル人というように、ニューヨークでは外国籍の人々がたくさん生活しています。そもそも米国は日本と違って移民国家であり、それは国民の意識や教育にもしっかり反映されています。日本で言う「国際関係」を「ダイバーシティ(diversity)」つまり「多様性」とざっくりしたフレーズを使って表します。「ダイバーシティ」とは、国籍や出身国に限らず、人種、民族、肌の色、宗教、性別、LGBT(性的マイノリティー)、障害、持病、体系、食事制限…全ての個性を表す要素を含むフレーズです。「外国人」は国籍を示すことで、自分と相手の間に壁を作ってしまいがちですが、「ダイバーシティ」は全てを包み込むイメージと私は解釈しています。究極の多文化共生社会では「あなたはあなた、私は私、それでよし」と割り切って、暗黙の了解を維持するための道具ともいえるかもしれません。

この「ダイバーシティ」を尊重する社会の中、社会人として(社会の一員として)自分のアイデンティティを持ち、個性を大切にし、なおかつ自己主張をすることも求められます。日本では「出る杭は打たれる」と言いますが、米国では「the squeaky wheel gets the grease(きしむ車輪が油を差される)」と言うくらい国民性とそのふるまい方が異なります。

そこで私は生粋の日本人ではなく「日系人」でありながらも、日本を代表してきました。たとえ完璧に日本を代表できる立場ではなくても、アジアンな外見、「Hanako Suzuki」という名前、そして日本語を家で使うということを元に、自分のルーツの自己主張を求められるので、代表せざるを得なかったです。ということで、幼稚園の頃から私はクラスメートに日本の「浴衣」を着せて見せたり、母がクラスを訪問して折り紙を教えたり、歴史の授業で「第二次世界大戦」を勉強する際には父がクラスを訪問してお話をしたりしました。大学生になってから、寮長として「おにぎり作りパーティー」を主催したこともありました(皆にとっては初体験で、とても好評でした)。

例えば、日本人でも自分の地元の方言や魅力などを話すことって、楽しくありませんか?これは国内で繰り広げられる自己主張であり、ある意味、多文化共生かなと思います。それをニューヨーク市内では世界レベルで繰り広げられているだけです。

これらは全てあくまでも一人の「日系アメリカ人」の体験談であり、ニューヨークの多文化共生の氷山の一角と言っても過言ではありません。○○系アメリカ人がたくさん定住している分、このような自己主張を兼ねた「国際交流」とも呼べる様子が何倍にも何回にもわたって繰り返されます。これが移民国家である米国のなかでも、「人種のるつぼ」と言われるほど多文化かつ多様なニューヨークの多文化共生の現状だと思います。それが全てバラ色で素晴らしいかと言えば、そうではありませんし、もちろん差別も誤解もあります。果たして、この姿が日本の目指す多文化共生の典型かどうかは分かりませんが、私はこういう環境で生まれ育ち、離れてみて初めて気が付きました。世界を身近に感じられる環境とはどれだけ豊かで贅沢なことだったのか、と。

幼なじみのアディーとリバーサイドパークにて

幼稚園のクラス写真

小学生時代の多様な友達と一緒

小学校のクラスを訪問して、第二次世界大戦の話をする父
(私は浴衣を着せて見せました)

親友のエンジェラとニュージャージー州のお盆祭りにて

【著者プロフィール】

ハナコ・マーガレット・スズキ

1990年米国ニューヨーク州ニューヨーク市(マンハッタン)生まれ。コロンビア大学付属幼稚園ホリングワースから全米トップともいわれるスタイヴェサント高校まで、一貫してニューヨークの公立学校に通う。サラローレンス大学でクリエイティブライティングと写真術を専攻し、2011年12月に卒業。

学生時代は、がん専門クリニックやフジテレビ海外ネットワークの一環であるFujisankei Communications International, Inc. など様々な企業でインターンを経験。大学卒業後は、インターンをしていた Bloomingdale’s(米国デパート)マーケティング部にコピーライターとして採用される。

ニューヨークで生活しながら年々「Made in Japan」のブランドが薄れていっていることを実感し、日本と世界の架け橋になりたくてJETプログラムへ応募する。2013年7月から、香川県総務部知事公室国際課の国際交流員(CIR)として、知事の翻訳・通訳業務をはじめ、来県した駐日大使やVIPのアテンド、販路開拓事業や経済交流の支援、英会話の講師、県内の学校で米国について講演、国際イベントの通訳や司会、異文化交流ワークショップの講師など様々な活動を約3年間行う。

JETプログラムを修了後、2016年8月から現職。