山野上麻衣さん コラム

教育の現場で心に留めておきたいこと

山野上麻衣
(元・カナリーニョ教室指導員(静岡県浜松市)、元・(財)かながわ国際交流財団「あーすぷらざ外国人教育相談」コーディネーター、現・国際移住機関(IOM)駐日事務所就学支援事業担当)

「普通の生活」をするのが夢だと語った少年がいました。「普通に仕事があって。結婚して、子どもが二人ぐらいいて、奥さんと子どもたちと笑ってて…」。彼は当時、中学校3年生の年齢でしたが、いろいろな理由が重なって地元の中学校を退学し、学校には通えない状況でした。当時、リーマンショック後の不景気の余波で、彼の親も失業し、また、近くにいるブラジル人の大人という大人が仕事を失っているような状況でした。その後も地域差はありますが雇用状況が大幅に改善して安定しているということはありません。

彼の「夢」は、「外国人」にとっては高望みでしょうか。中学校を中退せざるを得ないような環境にある子は、「普通の生活」を望む資格はないのでしょうか。同様に、高校受験の年齢で高校に合格できる日本語力がなかった子や、高校を中退してしまった子は、運が悪かったから、もしくは本人(または保護者)の努力が足りなかったから、仕事をもったり、結婚したり、家族とともに笑っていたいという「普通の」将来を夢見てはいけないのでしょうか。

外国につながる子どもたちの高校での困難にも注目が集まるようになりました。高校生年齢で来日する子どもたちの困難は特に入試制度との関係で語られることが多いですが、最近では、入口の課題のみならず、高校に在籍し続けること、また、卒業後という出口についても関心が寄せられています。「高校に合格はしたけれど」ついていけない、中退してしまう、卒業したけれど仕事がない。日本で生まれた子なのに、日本で小中学校を出た子だけれど、という語られ方もたくさん耳にします。

学齢期の途中で来日した子どもの困難もありますが、日本の学校教育制度の中で育ってきた子どもたちでさえ、「普通の生活」が手の届かぬ夢になっていく現実があります。これを子どもたち一人一人の「能力」や「やる気」の問題と捉えている限り、私たちの社会が前に進むことはできません。

ただし、ここで重大な問いをさらに提起しておきます。「普通の生活」とは、誰がそのあり方を決めるものでしょうか。先ほど「私たちの社会」と書きましたが、「私たち」とは誰でしょうか。

このような問いを立てる背景として、教育のもつ両義性について考えてみます。教育の場は、ことばを育む場であると同時に、時にはことばを封じる場としての機能をもってしまうことがあります。支援者は、良かれと思って子どもたちを「普通の生活」に向かわせようと、必死で追い立てます。そのこと自体は、多くの場合は必要なことでしょうし、私自身、そのようなことをやってきました。

しかし、支援者が考える「普通」を追求する過程の中で、子どもたちのことばが奪われていく可能性も潜んでいます。マジョリティの考える「普通」であることについていけない、あるいは抵抗感を抱く子どもたちが切り捨てられる危険性もあります。「普通」ではない自分のことばには価値がない、どうせ聞いてもらえない、言ってもしょうがない。ことばを失った関係性の先に、学校やその他の教育活動の場から子どもたちの足が遠のいていく場合もあります。

冒頭でふれた少年は、その後いろいろありましたが、本当にたくさんの人の力に支えられて、転居先で中学校を卒業しました。中学校卒業後、働き始めた彼は、ある日、私にメールでこんなことを問いかけてきました。「まいさんは、何のために働くの?」ドキっとするような最初の一文に続けてつづられていた長文には、仕事内容への不満ではなく、「働いても食べていけない」ことへの不安、いつか自分の家族を養えるだろうかという不安がこめられていました。食べていけないならば、何のために働くのか。彼からの問いかけは、今もずっと宿題として私の胸にあります。

それでも、かつては大人や社会への不信感とあきらめから、思いを伝えたり考えたりすることを放棄していたこの少年が、自分のことばで語るようになったことに、これまでの彼にはなかった、これからを生きていくための足場を感じます。その足場は、彼のことばを引き出し、受け止め、関係性の中で育んでくれた中学校の先生方やクラスメートの存在があって、確固としたものになっていったのだと思います。

子どもに関わる実践の場は多様です。学校教育の中、地域での学習支援教室や学童保育の場、あるいは、そのように組織化されていない、個人対個人としての関わりもあるでしょう。そのような各種の実践を行うベースとなる考え方について、ここまでの内容を踏まえてまとめてみます。


特に学校教育の場面においては、明示的な目標や、あるべき子ども像に向かって子どもを導くという姿勢が強くなります。学校教育以外の場でも、これは十分に起こり得ることです。しかし、これまでも述べてきた通り、支援者が正しいと思うこと、常識だと思うこと、これが「幸せ」だと思うことが、子どもたちにとって常にそうだとは限りません。そのような考え方の「枠」は、多くの場合、日本社会のマジョリティの思考回路で規定されているからです。ここで言う「マジョリティ」は、単に国籍が日本で日本語を母語としているということだけではありません。自身が学歴社会で努力して勝ち残ってきた、または、安定した職業や安定した家族の中で生活している、そのような経験は、必然的に考え方をある種の方向へと形づくっていきます。その自分の「枠」に気づき、子どもたちが自分とは異なる世界を見て育ち、異なる価値観をもっている可能性を認識することが必要です。

支援者が勝手にゴールを設定し、子どもに「こう答えさせたい」と望むのでは、子どものことばが外に出てこなくなります。子どものためらいや不安や違和感や反発を、「そう感じることは悪いことではないよ」「聞いているよ」と受けとめる関係性の中で、子どもたちは自ら語るようになっていきます。ことばを発して受けとめられたという経験が大切です。ただし、十分にことばが出てこないときもあり、それが何らかの「問題行動」として現れることもあります。性急に結論を出すのではなく、関係性やことばが熟すのをひたすら待つしかないときもあります。このことは、はやく「成果」を実感したい支援者にとっては、忍耐を必要とすることです。とはいえ、子どもが育つプロセスは、そんなものですから、子どもに関わる以上は、寄りそう姿勢を大切にできればと思います。

子どもたち自身がいま生きているこの社会を、「自分たちの社会」と感じられるかどうか。その中で、ことばを発し続けることに意味を見出せるようになるかどうか。誰のための、何のための教育なのかということを常に問いながら、子どもたちの傍らに寄り添いつつことばを引き出せるような実践に携わり、また、そのような実践を応援していきたいと思っています。

※本稿は、筆者の個人的な考えを表明したものであり、必ずしも現在の所属である国際移住機関の公的な立場を代弁するものではない旨、お断りしておきます。

【関連する著作&リンクアドレス】

  • 山野上麻衣, 林嵜和彦 「浜松市における外国人の教育問題と協働―カナリーニョ教室による不就学対策より」 矢野泉編著 『多文化共生と生涯学習』 明石書店, 2007年
  • 山野上麻衣 『「不就学」から日本の教育と社会を問い直す―浜松のブラジル人の子どもたちのケーススタディから― 』 一橋大学修士論文, 2010年
  • 『あーすぷらざ教育相談報告書』
    http://www.earthplaza.jp/forum/foreign_education/