コラム

難民への日本語教育を経験して

難民への日本語教育を経験して

公益社団法人国際日本語普及協会 理事長 関口明子(談)

「ベトナムって昔は南北分かれて、戦争をしていたのよ」・・・いまや、若い人にこんな話をするほど、ベトナム戦争は遠い昔のことになり、日本が難民を受け入れたことも知らない人が増えています。その一方で、現在の難民認定者数の少なさや、難民申請中の人々に対する処遇がしばしば問題として取り上げられています。こうした課題を考えていくために、かつてのインドシナ難民受け入れ 1 の際、日本語教育を担われた、公益社団法人国際日本語普及協会(AJALT)理事長の関口明子さんにお話を伺いました。(聞き手:坂内泰子)

1.難民への関心

5年ほど前でしょうか、地中海で難民船の沈没が相次ぎ、幼い子どもたちも犠牲になった時期、「インドシナ難民について教えてほしい」という問い合わせが何件も来て、中には小学生からのものもありました。日本にもボートピープル 2 が来たことがあると、学校で先生に聞いたそうです。先生が難民のお話をしてくださるのはありがたいですね。まずは知ることが大切ですから。

2.難民への日本語教育

1980年2月、神奈川県大和市に定住促進センターができ、そこで約16年間日本語を教えました。政府のトップから現場の私たちまで、誰にとっても難民受け入れは未経験です。初めてのことを成し遂げるために、上から下まで皆一生懸命でした。来日した難民が定住できるよう、前に進むしかなかったのです。
 その当時、日本語教育の対象者は主に留学生などでしたから、同じ日本語教育でも、まるで別のものでした。難民は約4カ月で定住促進センターを出て働かなければいけませんから、留学生などの学習目的とは全く違います。ですから、生涯を通して日本語力を獲得できるように、文法を意識した学習と、生活ですぐ必要な表現の運用力をつける学習の二本柱で対応しました。でも、勉強が得意な方ばかりではありませんし、母語でも識字教育を受けていない方もいらしたので、能力に応じて学習する日本語を変え、母語で理解していない語彙は使用しないなど、配慮しました。混んだ電車を降りるときの言い方から、相談対応をお願いするための表現、あるいは失敗したときの謝罪まで、能力別に分けて教えました。標識をまとめた冊子も作りました。
 クラス編成も学校のようにはいきません。能力別クラスがうまく組めるときも、終了間際の人と入所直後の人が一緒のクラスになるようなときもありました。予算との関係です。学習者にとっては、まったくその時の「運」になるわけです。国を逃れられたのも運、日本を選んだのもやはり運。人生は厳しいから、いろんなことがありますよ。当初うまくいかないと思われたものでも、振り返れば、それがよかったりもします。現場の私たちとしては、とにかく与えられた中でのベストを尽くすだけでした。

3.子どもたちへの支援

子どもたちもたくさんいましたよ。日本語の勉強の1時間目は体育として、小学校にお願いして、校庭で運動させていただきました。子どもたちが日本の学校に行くようになったときの教室での苦労は目に見えています。せめて体育の時間は自信をもって過ごしてほしいと思って、逆上がりと縄跳びができるようになることを目標にしました。縄跳びをしながら数を数えますでしょ、最初は子どもが跳べた数を教師がその子のノートに書きます。だんだん数が増え、ノートに自分で数字が書けるようになります。105跳べた喜びと自分で数字が書ける喜びと、汗でその数を体感した喜びです。これこそ言葉の学びそのものだと思います。
 そのころは「年少者の日本語教育」なんて言葉もなくて、子どもは放っておいても大丈夫だと思う人が多かったのですけれど、日常生活の言語力と、勉強をする言語力は違います。定住促進センターが開所して数年後、支援団体の方とご一緒に子どもたちが通っている学校をいくつも回って、放課後の日本語指導を申し出ました。学校に依頼されてではないので、「放課後にお手伝いさせてください」と言って回るんです。当時は、教育に外部の手を借りるのは学校の恥だとするような空気がありましたから、どこへ行っても「間に合ってます」状態でした。中学校で、「高校入試にお困りじゃありませんか」と訊ねたところ、「彼らは(進学を)希望しませんので」というお返事でした。高校に行かないと、将来の可能性が限定されて困るのに、当時学校はそのような状態でした。ついにようやく一校、門を開いてくださったとき、かながわ難民定住援助協会の桜井さんが、「関口先生、ここまで来るのに7年かかりましたね」と感慨深げにおっしゃいました。たしか2000年のことでした。放課後支援も長い道のりでした。

日本語教育の様子

4.地域の受入れ

地域の人々はもちろん最初は反対でした。とにかく「難民」がどのようなものか、どなたもご存じありませんから。「うちには年頃の娘がいるから心配だ」などという言葉も出たそうです。とにかく彼らのことを知っていただかなくてはという思いで、開所後には、所長が率先して、難民の方と一緒に公園清掃に行ったり、障碍者施設を訪問したりしました。地域の方も日頃の様子をご覧になるうちに徐々に距離が縮まっていきました。
 忘れられないのは、ある年の夏祭りのことです。「餅まき」に招待されたんです。お餅を拾う方ではなく、やぐらの上から撒く方へのご招待です。食べ物を、しかもお祭りの食べ物を台の上から難民が撒いて、日本の人々が喜んで受け取っているんです。本当に涙が出るほどうれしかったですね。言葉も価値観も習慣も違う人々がお互いに真に理解し合えるには時間がかかるんだなと思いました。お互いに相手を知ろうとすることが大切なんだと思いました。

5.難民ってどんな人?

「難民ってどんな人?」と尋ねられても、「あなたや私みたいな人ですよ」と答えるしかありません。難民が発生するときは、一つの社会が国を出て移動せざるをえないときです。とても「どんな人」と言えるような限定はできません。職業も、資産も、家族も、教育も、本当にいろいろです。ただ、どの人も生き抜くための苦労を経て、私たちにないものを獲得しています。

6.継続的な支援 

定住が長くなれば、生活そのものの向上が課題です。仕事の幅を広げて、収入を上げるためにも日本語は必須です。経済的理由で、子どもたちの教育が不十分になっては、貧困の再生産になってしまいます。ですから日本語でも別のスキル獲得でも、一つ上が目指せるような支援の仕組みが継続的に必要です。日本語教育推進法ができ、日本語教育が法律で定められたということは、この点で大きな一歩です。特に企業の責務という点に期待をしています。難民に限らず、外国人労働者への日本語教育を、企業の方は自分ごととして、しっかり受け止めていただきたいです。

7.ともに生きる

難民は私たちにないものを持っている人たちです。中には大成功して多くの同国人を雇用したり、支援したりしている方もいます。介護のヘルパー研修から始めて、介護福祉士の資格を取って正規雇用になり、今はケアマネジャーを目指して勉強中というように、地道にステップアップしている人、また、このコロナ禍でお弁当屋さんは忙しいのだそうで、「お弁当を買いたい人がたくさんいるので休めません」と足が痛いのに、頑張って責任を果たす人。彼女はマスクを丁寧に手洗いして、アイロンまでかけて、何度も使ってもいます。彼女には会社がマスクを支給してくれます。でも友人は支給されないので、半分は友人に渡しているのです。使い捨てマスクも丁寧に洗ってきちんとアイロンをすれば新品みたいになりますよと明るく話してくれました。誠実で、丁寧で、さりげない優しさのつまった生き方です。
 ともに生きるとは、彼らのそういう姿勢を隣において、見習ったり、知恵を分け合ったりすることではないでしょうか。今のコロナ禍も、まさに一つの問題について世界中が格闘している状態です。その解決へのプロセスを通じて、それぞれ自分たちに欠けているものに気づかされると思いますし、危機的状況が収まったとき、「この地球でともに生きる」という意識が一層深まるのではないかと思います。難民を含む外国の方々は、わたしたちとは異なる価値観や文化やいろいろな才能を日本社会に持ってきてくれます。 国際条約上の難民受け入れ数が大変少ないことは大きな課題です。しかし、数字に上げられるのは、条約難民の数だけになりがちです。日本には、インドシナ難民、条約難民、第三国定住難民の3種類の難民がいます。インドシナ難民と第三国定住難民は国際条約上の難民ではなく、日本の閣議了解で受け入れた難民です。そのため難民受け入れの問題になると、日本が40年以上前から難民を受け入れている事実には触れられないケースが多いです。794人(条約難民1982~2019)ではなく、12,307人(条約難民、インドシナ難民、第三国定住難民の合計)いる 3 と言いたいです。それでも少ないことに変わりはありませんが。
 AJALTの講師たちは難民事業本部の行う難民の日本語教育を、専門家集団として40年間担当してまいりました。その経験から、定住後40年経過したインドシナ難民は、外国人受け入れについての生き証人だと思います。もはや亡くなった人も多いとはいえ、すでに中年から老年にある人々、2世、3世などの日本語使用の実態調査を中心に、その人生と半生を検証する必要があり、それによって今後の難民及び定住者に対する受け入れ国としてのなすべきことが浮き彫りにされると考えます。母国を離れ母語も使えない外国人定住者たちは、今、日本人以上に大変な思いをしています。コロナ禍を踏まえたインドシナ難民の実態調査とその検証、そして難民を含む外国人定住者の日本語教育の今後の新常態における長期的なシステム構築を、私たち日本語教育関係者と彼らを雇用している企業と行政が連携して実施していくことが急がれます。


1 公益財団法人アジア福祉教育財団 難民事業本部ホームページ
http://www.rhq.gr.jp/ukeire/
2 紛争・圧政下にある地から、漁船やヨットなどの小船に乗り国外に逃れた難民のこと。
3 外務省ホームページ
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/nanmin/main3.html

著者プロフィール
関口明子
 公益社団法人国際日本語普及協会(AJALT)理事長
 長年にわたり、地域の日本語ボランティア養成講座、学校関係者への研修講座、技術研修生への日本語教育の講師やコーディネーターを務める。日本語ボランティアと連携し、地域の子どもの日本語教室、親子日本語教室を実施する。

坂内泰子
 地域国際化推進アドバイザー、神奈川県立国際言語文化アカデミア元教授、多文化社会研究会理事
 神奈川県内で、日本語ボランティアの養成や外国籍県民への日本語教育に携わるとともに、公務員への「やさしい日本語」研修に従事。

~~~~~~多文化研HAIKU会~~~~~~
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花粉症のため眠れない夜に悩まされたレスタさんは、イタリアから来日されました。「国では大丈夫だったのに、日本にいるとこの時期がつらい」とおっしゃる外国の方はレスタさんに限りませんが、何だか申し訳ない気持ちになります。

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