コラム

国際政治から見たウクライナ危機

国際政治から見たウクライナ危機

ジャーナリスト(元日本経済新聞編集委員) 藤巻秀樹

第Ⅲ部はウクライナ避難民のウェルビーイングに焦点を当てますが、その前に多くの避難民を出すことになったプーチンの戦争を国際政治の視点から考えてみたいと思います。

まず指摘したいのは、ロシアのウクライナ侵攻を事前に予測できた専門家はほとんどいなかったということです。ロシア政治に詳しい廣瀬陽子・慶応義塾大学教授は「研究成果に基づけば、ロシアがウクライナに侵攻するはずはなかった。自分の長年の研究は何だったのだろうか。絶望的な気持ちに苛まれた」と語っています 1 。歴史が大きく動くとき、専門家でも見通しを誤ります。ベルリンの壁崩壊やソ連解体のときもそう。記憶に新しいところではトランプ米大統領の誕生がそうでした。米国の専門家は「大統領選で勝利するのはヒラリー」と信じて疑いませんでした。専門家は豊富な知識や過去の事例をもとに合理的な判断をしますが、歴史の転換点ではこれまでの常識が通用しないパラダイム・シフトが起こります。プーチンのウクライナ侵攻はまさに歴史の大きな転換点と言ってよいでしょう。

なぜ、プーチンは暴挙に出たのでしょうか。その背景には国際政治の枠組みの変化があります。そのことは後で詳しく述べますが、その前にまずプーチンの動機に迫りたいと思います。旧ソ連復活への野望、北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大阻止など様々な要因が指摘されていますが、一番大きいのはウクライナの欧米傾斜に危機感を持ったことではないでしょうか。ウクライナで民主化が成功すると、ロシア国民にも大きな影響を与えます。それはプーチンの強権体制を揺るがすことにつながりかねません。ロシアでも民主化を求める声が高まり、国内が不安定になるからです。プーチンにとってウクライナの民主化は目障りでしかたがない。ウクライナの民主体制を弱体化させ、ゼレンスキー政権の信用を失墜させることがどうしても必要だったのです。プーチンはウクライナ侵攻の背景として、よくNATO拡大への懸念に言及していますが、それは大した問題ではありません。ウクライナがNATOのメンバーになることは非現実的だからです。NATOはウクライナの加盟に慎重で、手続きは進んでいません。

プーチンがウクライナ侵攻に踏み切った背景として忘れてはならないのは、国際政治の枠組みの変化です。特に大きいのは超大国・米国の戦略転換でしょう。2013年9月、米大統領だったオバマはシリア内戦についての演説で「米国はもはや世界の警察官ではない」と宣言しました。中東をはじめとした世界の紛争に超大国として振る舞うことをやめ、積極的に介入しない方針を打ち出したのです。この路線は彼の後を継いだトランプにも引き継がれます。トランプが打ち出したのは「アメリカ・ファースト」。自国の利益を最優先する方針を鮮明にしました。米国はロシアより中国を脅威と見なし、中国との対抗に外交資源や軍事力を集中投下する戦略に転換していきます。現在のバイデン政権は2021年8月、20年にわたり米軍が駐留したアフガニスタンから完全に撤退。ウクライナにも早々と軍事介入しない方針を打ち出しました。こうした米国の姿勢の変化がプーチンのウクライナ侵攻を後押ししたのではないかと見られています。

もう一つ無視できないのが、「新・超大国」中国の影です。あまり知られていませんが、中国とウクライナは良好な関係にあります。中国はアジアから欧州、アフリカにまたがる巨大経済圏構想「一帯一路」の沿線国としてウクライナを重視しています。両国の貿易は急速に拡大し、2019年にウクライナの対中貿易額はロシアを抜き、中国が最大の貿易相手国になっています。また中国が推進する国際貨物列車「中欧班列」はウクライナを重要な中継点と位置付けています。すでにキーウ(キエフ)と武漢の間で貨物便が開通しています。ロシアはこうした中国のウクライナ進出に神経を尖らせています。中国は2014年のロシアのクリミア併合の前、クリミア半島で小麦輸出のための港を建設する計画を進めていました。ロシアがクリミア併合を急いだのは、中国による港湾建設を阻止しようとの思惑もあったと見られています。「ロシアとウクライナは一体」と主張するロシアにとって、ウクライナに中国の影響力がじわじわと広がることは大きな脅威であったことは想像に難くありません。

ウクライナ危機は国際政治における米国の後退、中国の台頭を背景に起こりましたが、今後の世界はどうなるのでしょうか。中西輝政・京都大学名誉教授は「ロシアのウクライナ侵攻を機に世界は掛け値なしに変わった。冷戦終結から今日まで維持してきた国際秩序が音を立てて崩れ落ちる瀬戸際に立っている」と分析しています 2 。またセルヒ・プロキア・ハーバード大学教授は「欧州と世界の歴史で、1989年の東欧革命とともに始まった時代は終わった。冷戦後の世界秩序には実質的に終止符が打たれた。新たな冷戦が始まった」と指摘しています。

欧州各国の動きを見ていると、実際に新たな冷戦が始まったと思われるような出来事が相次いでいます。まずドイツが国防費の増強に動き出しました。ショルツ首相はロシアのウクライナ侵攻を受け、今年2月、ドイツの国防費をGDP比で2%以上と大幅に引き上げる方針を表明しました。これにより、ドイツの国防費はロシアを抜き、米中に次ぐ世界3位に躍り出る見通しです。ポーランドも国防費をGDP比2%から3%に引き上げる方針です。デンマークやスウェーデンも国防費を増額し、GDP比2%にすると発表しました。また、これまで軍事的に中立の立場を堅持していたフィンランド、スウェーデンが政策を転換、今年5月にNATO加盟を申請、早ければ年内にも実現する見通しです。このように、プーチンによるウクライナ侵攻は欧州の安全保障の枠組みを大きく変えています。

経済のグローバル化が進んだのは、冷戦終結後の30年間で社会主義国家の市場経済化と、世界に平和と安定がもたらされたからです。しかし、過去10年間でナショナリズムや保護主義が台頭し、グローバル化の大きな障害になっています。ロシアのウクライナ侵攻はこうした傾向に拍車をかけています。サプライチェーン(供給網)が寸断され、エネルギーや食糧価格が高騰。世界の企業や政府は資源や原材料の調達多様化を迫られ、経済にも安全保障の重要性が高まる時代になりました。グローバリズムは抜本的な見直しの時期を迎えているのです。

さらに世界に脅威を与えているのが、ロシアによる核兵器攻撃の可能性です。プーチンはウクライナ侵攻後、核兵器の使用を示唆する発言を繰り返しています。これまで「核」は抑止力としてのみ存在し、実際には使えない兵器と見なされてきましたが、プーチンの威嚇により核兵器の使用が現実味を帯びてきました。核大国が核を持たない小国に侵攻したことは、北朝鮮の核保有論理を後押しすることにもつながり、日本にとっては大きな脅威です。

最後にロシアとウクライナの戦いを別の角度から見てみたいと思います。ゼレンスキーはSNSを通じて世界にメッセージを発信しています。彼は戦火の中で指揮をとりながら西側各国の議会でオンライン演説をした史上初の政治指導者です。これに対し、ロシアはマスメディアの報道やSNSを厳しく制限して国内の言論統制を行い、「大本営発表」に終始しています。戦争の広報戦略という点においても民主主義と権威主義の手法がせめぎ合っているのです。

欧米や日本の報道を見ると、世界の大半がウクライナを支持し、ロシアを非難しているように見えます。しかし、欧米を除くと世界の多くの国は民主主義国家ではありません。今年3月、国連で採択されたロシアによる侵攻を非難する決議に賛成した国は141カ国、反対は5カ国でした。しかし、棄権した国が35カ国もあります。英エコノミスト誌の調査部門EIUの分析によると、ロシアを非難し制裁にも加わっている国は人口分布で見ると世界の3分の1に過ぎません。大半が西側諸国です。新興国の中には中立の立場を維持する国やロシアに理解を示す国も少なくありません。新興国から見ると、コロナワクチンの提供やシリア難民の受け入れを渋った欧米諸国は利己的に映ります。過去の植民地支配への反発も消えていません。世界のすべての国が、ウクライナとそれを支援する欧米諸国を支持しているわけではないのです。そのことも踏まえて国際政治とウクライナ危機を見る必要があるかもしれません。

戦争は長期化の様相を呈してきました。戦争を止められるのはプーチンの決断、もしくはプーチンの失脚しかない状況です。大量の避難民を生み出した悲惨な戦争の背景を国際政治の視点から説明してきましたが、これ以上避難民を出さないためにも国際社会に和平に向けた知恵を絞ってほしいと心から願っています。


 
参考
1 慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス おかしら日記|「研究は戦争を止められないのか」廣瀬陽子
https://www.sfc.keio.ac.jp/deans_diary/016182.html?fbclid=IwAR14wlRxeuFZ2eycdlqIbx4dySSyv0Dep7YT1MvFfqKWl4m_ELXXO4Z7vjA
2 文藝春秋digital|「第三次世界大戦の発火点」中西輝政
https://bungeishunju.com/n/n8bd7bf398d0c


著者プロフィール
藤巻秀樹
1979年東京大学文学部フランス文学科卒業、日本経済新聞社入社。パリ支局長、国際部次長、経済解説部次長、神戸支局長などを経て編集委員。愛知県保見団地、東京・新大久保など外国人集住地域に住み込み取材をした長期連載企画を執筆。2014年~2020年北海道教育大学国際地域学科教授。現在は筑波学院大学非常勤講師。専門は欧州政治、多文化共生論。主な業績に『「移民列島」ニッポン―多文化共生社会に生きる』(藤原書店、2012年)、『開かれた移民社会へ』(共編著、藤原書店、2019年)、『パリ同時多発テロとフランスの移民問題』(日仏政治研究第10号、2016年)など。

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