山脇 啓造
やさしい日本語は、1995年の阪神・淡路大震災を契機に災害時の情報伝達の手段として開発が始まったとすれば、今年で30年が経ったことになります。その後、平時のやさしい日本語での情報発信も、2000年代に入ってから、自治体や国際交流協会で始まっています。近年では、外国人観光客とのコミュニケーションや、外国人住民と日本人住民の交流を促進する手段としてやさしい日本語を活用した取組も進んでいます。学校や病院、企業等でも活用が始まりました。また、相手に配慮した「優しい」日本語として障がい者や高齢者とのコミュニケーションにとっても有効であることが知られてきました。
2020年と2022年度には入管庁と文化庁によって「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン」(以下、ガイドライン)、「在留支援のためのやさしい日本語ガイドライン 話し言葉のポイント」、「やさしい日本語の研修のための手引き」が作成され、全国の自治体に広がりつつあります。筆者はこれらの文書を作成するために設けられた有識者会議の座長を務めました。
やさしい日本語をめぐる混乱
しかしながら、やさしい日本語の普及が順調かと言えば、決してそうとは言えないと思います。やさしい日本語が普及するにしたがって、やさしい日本語に反対する声も広がっているかもしれません。それはどうしてでしょうか。筆者は、「やさしい日本語」が多義的な用語であり、定義があいまいなままに用いられていることにその一因があるのではないかと考えています。以下、3点に分けて説明したいと思います。
第一に、外国人が学ぶ初級日本語もやさしい日本語と呼ばれている問題です。 「ガイドライン」では、やさしい日本語は「難しい言葉を言い換えるなど、相手に配慮したわかりやすい日本語」と定義されています。つまり、日本語母語話者(日本語を母語とする人)が日本語非母語話者(日本語を母語としない人)に対して、相手が理解しやすいように配慮したわかりやすい日本語を指します。ところが、やさしい日本語は外国人が学ぶ初級レベルの日本語という意味でも用いられてきました。例えば、NHKには初級の日本語レッスンを提供する「やさしい日本語(Easy Japanese)」というサイトがあります。
第二に、日本人市民向けにわかりやすくした日本語もやさしい日本語と呼ばれている問題です。「ガイドライン」に示された日本語非母語話者に向けたやさしい日本語とは別に、日本語母語話者に向けたわかりやすい日本語をやさしい日本語と呼ぶ専門家もいます。前者は easy Japaneseと呼ばれ、後者はplain Japaneseと呼ばれています。英語圏では、一般市民にとっても難解な法律用語や行政用語をわかりやすく書き換えた言語を、plain Englishと呼んでおり、国際的にもplain languageの普及をめざした運動が広がっています。こうした観点に立ったやさしい日本語という位置づけになります。
第三に、やさしい日本語が「地域社会の共通言語」あるいは「多文化共生社会の共通言語」と位置付けられている問題です。これは、外国人住民とのコミュニケーションをとるために、英語など外国語を使わなくても、やさしい日本語を使えばよいということで、日本人住民に外国人住民との交流を促す狙いが込められています。一方で、「共通言語」が強調され、日本に暮らす外国人住民が増えると、日本人が用いる日本語は「簡易日本語」となり、日本語や日本文化の衰退につながるという批判が生じ、やさしい日本語に対する拒否反応につながります。例えば、日本人にとっては丁寧な表現が、外国人には難解であるため、直接的な表現が必要になりますが、その変化に違和感を持つ日本人もいるかもしれません。
東京都の多文化共生推進指針(2025年6月)に示されたやさしい日本語の活用策についても、「簡易日本語」の都民への強制だとSNSで批判の声が挙がりました。こうした反応の背景には、「日本語らしい丁寧な表現を失いたくない」、「日本語や日本文化のユニークさが損なわれるのでは」という日本語母語話者の心理的抵抗感があると考えられます。
やさしい日本語の課題
このようにやさしい日本語をめぐる混乱が起きている現在、やさしい日本語の普及に関する主な課題として三点指摘したいと思います。
第一に、日本語をどこまでわかりやすくするかという問題があります。外国人の日本語能力は、日本語能力試験(JLPT)によって、N1からN5までの5段階で評価されていましたが、近年は、日本語教育の参照枠によって、A1からC2までの六段階で評価できるようになりました。話し言葉は、話しながら相手のおおよその日本語レベルがわかり、それに応じて日本語のやさしさを調整することができます。一方、書き言葉に関しては、そうした調整が難しく、どのレベルの日本語能力の外国人に読んでもらうのか、事前に想定する必要があります。しかしながら、ガイドラインでは、やさしい日本語のレベルをどこに置くかを示しませんでした。
第二に、情報の多言語化とやさしい日本語のバランスの問題です。日本における情報の多言語化は1980年代後半に始まり、政府の外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策や外国人との共生社会の実現に向けたロードマップでも、主たる取り組みの一つに挙げられています。一方、外国人住民の出身国が多様化する中で、情報の多言語化には莫大な費用がかかることから、やさしい日本語の活用に力点を移し、多言語化を回避する言い訳として機能してしまうことも指摘されています。
第三に、日本語教育政策の観点からの批判です。欧州など諸外国の多くは国の責務としてB1レベルをめざした体系的な自国語教育プログラムを提供していますが、日本ではそうした体制がまだ整備されていません。こうした中でやさしい日本語の普及が推進されることに対して、「外国人はやさしい日本語が理解できれば十分」という姿勢の表れであり、外国人を「二級市民」として扱っているという批判があります。つまり、やさしい日本語の推進が、本来必要な日本語教育の体制整備を回避する言い訳として機能してしまうことが指摘されています。
混乱を超えて
やさしい日本語は次第に広く社会に普及してきましたが、「何を指すか」「誰のためのものか」「どこまで簡単にするか」など定義や運用面での混乱が起きています。今後は、できるだけ外国人が学ぶ初級日本語や日本人市民向けのわかりやすい日本語を「やさしい日本語」と呼ぶのは避けるほうがよさそうです。また、「共通言語」という誤解を招きやすい表現も用いないほうがよいでしょう。
「日本語や日本文化の衰退」への懸念に対しては、やさしい日本語が日本語を置き換えるものではなく、コミュニケーションの幅を広げる「追加的な選択肢」であることを強調する必要があります。通常は従来の日本語を維持し、日本語能力が十分でない外国人住民とのコミュニケーションの場面でのみ、やさしい日本語を使用するという使い分けの考え方を広めるのがよいでしょう。
また、書き言葉のやさしい日本語に関しては、行政情報や生活情報など、どのレベルを想定してやさしくするのか、一定のガイドラインがあるとよいでしょう。もちろん、重要度や緊急性の高い情報、例えば、災害時の緊急情報など、命に関わる情報は、可能な限り多くの人が理解できるよう、より低いレベルを想定する必要があります。
情報の多言語化とやさしい日本語のバランスに関しては、横浜市や静岡県のようにいくつかの自治体では、多言語化とやさしい日本語の活用に関するガイドラインを策定しています。どの状況でどの情報をどの言語に訳すのがよいか、やさしい日本語とのバランスをどうとるかというのは、抽象的に議論するのは難しい面もありますが、国も自治体と同様にガイドラインを策定して大きな方向性を示す必要があると思われます。
一方、「外国人の二級市民化」という批判に対しては、やさしい日本語の普及と並行して、国による体系的な日本語教育体制の整備が不可欠であると言えます。やさしい日本語は日本語教育の代替手段ではなく、学習過程における橋渡し的役割を果たすものとして位置づけるべきでしょう。外国人住民がより高い日本語能力を身につけられるよう支援する一方で、学習途中でも社会参加できる環境を整える、この両輪での取り組みが求められます。
重要なのは、やさしい日本語は一律の簡易化でも情報の多言語化や日本語教育の代替でもなく、相手と状況に応じた配慮の実践であり、同時に多文化共生社会の構築に向けた一つの手段であることを、社会全体で共有していくことではないでしょうか。
おわりに
やさしい日本語は、言語や文化の違いを越えて誰もが安心して暮らせる社会を築くための大切な取り組みです。また、やさしい日本語を使うことは、日本語母語話者自身が「伝える力」や「相手を思いやる力」を育む機会にもなります。
やさしい日本語は、ユニバーサル・デザインの理念を言語に応用した、使い手による配慮の実践とも言えます。日本社会の新たな強みとなり、グローバル化が進む中で世界に誇れる取り組みへと発展していく可能性を秘めています。やさしい日本語を、easy Japanese でもなく、plain Japaneseでもなく、Yasashii Nihongo として世界に発信し、日本社会が多様性と包摂性を備えたモデルとなることが期待されます。