山脇 啓造
インターネット、特にSNS上において「多文化共生」や「外国人政策」というテーマは、近年、炎上リスクを孕むセンシティブな話題です。そこでは治安への不安や文化摩擦などを強調する排外的な言説が過剰に可視化・増幅されるエコーチェンバー現象が起きています。ネット上の執拗なバッシングは、「多文化共生」という言葉に「現実の課題から目を背けたキレイごと」というレッテルを貼り、公の場で使うことを躊躇わせる空気を生み出してきました。
しかし、行政がこの言葉から距離を置き始めている理由は、単にネット上の言説が過激だからではありません。実際の世論調査を見ると、日本社会の視線はより複雑です。深刻な労働力不足を背景に、外国人労働者の受け入れそのものは認めつつも、自分の地域での受け入れとなると慎重論が根強いと言えます。こうした世論の背景には、外国人労働者の受入れ拡大という社会構造の変化に対する国民の不安と、地域の受け入れ基盤が十分に整っていないという現実があるのではないでしょうか。
こうした状況の中で、行政は「多文化共生」という理念そのものを否定しているわけではありません。しかし、住民の不安や政治的リスクに配慮するなかで、その理念を前面に掲げることには慎重になっています。そして政策の中心的な言語は、「多文化共生」から「秩序ある共生」、「安心・安全」、「管理」へと徐々に移行しています。
政策言語の変化
総務省の「地域における多文化共生推進プラン」や多くの自治体の「多文化共生プラン」は現在も存続しています。したがって、日本の行政が「多文化共生」を放棄したとみるのは時期尚早でしょう。
しかし、国レベルの政策文書に目を向けると、「秩序ある共生」、「安全・安心」といった表現が前面に現れています。政府の5か年計画ともいえる「外国人との共生社会の実現に向けたロードマップ」(2022年)は、「安全・安心な社会」、「多様性に富んだ活力ある社会」、「個人の尊厳と人権を尊重した社会」という3つのビジョンを提示しましたが、2025年夏以降の政策展開を見ると、「安全・安心」や「秩序」の側面がより強く打ち出されるようになっていると言えます。
すなわち、2026年1月の「外国人の受入れ・秩序ある共生のための総合的対応策」では、「秩序」や「安全・安心」が強調され、地域社会における摩擦や不安への対応として、外国人のルール遵守や各種制度の適正化が前面に掲げられるようになりました。一方、「外国人が日本社会に円滑に適応するための取組」として、「日本語教育」や「受入れ環境整備」が位置付けられています。もちろん、これらは外国人住民の社会参加を支える重要な施策ですが、外国人の権利保障や包摂という観点よりも、「国民の安全・安心のための取組」の枠組みの中で整理されていることに留意が必要です。
この傾向は、政府と与党の用語の違いにも表れています。政府は2025年7月の外国人との秩序ある共生社会推進室の設置以来、「秩序ある共生社会」という用語を用いています。そこでは、「共生」という理念は後景化しつつも、なお政策目標として維持されています。しかし、自由民主党による2026年1月の提言では「秩序ある地域社会」という用語が用いられています。ここでは「共生」という語そのものが消え、政策の焦点は地域社会の秩序維持や安全・安心へと移っています。この用語の違いは、日本の外国人政策において、「共生」から「秩序」へと政策の重心が移りつつあることを象徴的に示しているのかもしれません。
三つの含意
「多文化共生」の理念が政策の周縁へと追いやられ、「管理」の論理が政策の中心を占め、外国人住民が「人材」としてのみ位置づけられることは、日本社会にとって以下の三点を意味するでしょう。
第一に、社会統合政策の不在が見えにくくなることです。日本政府は長年、「移民政策ではない」という立場を維持しながら、実質的には外国人住民の定住化を伴う受け入れ拡大を進めてきました。特に2018年12月の入管法改定以来、その傾向は顕著です。しかし、それに対応する包括的な社会統合政策は十分とはいえません。その結果、本来は国レベルで制度化されるべき社会統合の課題への対応が、自治体や地域社会に委ねられてきました。もし「多文化共生」という理念が周縁化し、「管理」の論理だけが前面に出れば、本来は国レベルで議論されるべき社会統合政策の必要性が見えにくくなり、その負担は引き続き自治体や地域社会に委ねられることになります。
第二に、外国人住民が地域社会の構成員として位置づけられなくなることです。多文化共生が持っていた重要な意義の一つは、外国人住民を単なる労働力ではなく、地域社会を共に支える主体として捉える点にありました。もちろん現実には、在留資格の制約や言語・文化的な壁など、権利保障の課題は多く残されており、この理念が十分に実現されてきたとは言い難いでしょう。しかし、多文化共生の理念が存在することで、外国人住民の社会参加や権利擁護を求める議論の足場が確保されてきた側面があります。「管理」の論理が前面に出れば、外国人住民は「ルール遵守を求められる存在」や「人手不足を補う人材」としてのみ理解され、その議論の足場そのものが失われるおそれがあります。
第三に、地域社会における相互変容が停滞することです。多文化共生の理念の意義は、外国人住民に適応を一方的に求めるのではなく、日本人住民もまた変わることを前提とした、相互変容のプロセスとして共生を捉える点にありました。「管理」の論理が前面に出れば、この双方向性は消え、地域社会の関係は「ルールを課す側」と「ルールに従う側」という非対称な構図に固定されやすくなります。その結果、対話や協働によって地域を共につくるという回路が閉じられ、外国人住民の孤立のみならず、日本人住民にとっても多様性から学ぶ機会が失われることになります。こうした相互変容のプロセスは、自治体だけでなく、国際交流協会やNPOなど市民社会の担い手によって支えられてきました。しかし、「管理」の論理が前面に出れば、こうした主体が果たしてきた媒介的な役割も弱まるかもしれません。
「多文化共生」を問い直す
現在の日本社会で起きていることは、「多文化共生」からの全面的な撤退ではありません。むしろ、「多文化共生」「秩序」「人材確保」という三つの論理が併存し、その重心が徐々に変化している過程と理解すべきでしょう。しかし、そのなかで「多文化共生」が政策の周縁へと押しやられ、「管理」と「実利」の観点ばかりが前面に出るのであれば、日本社会は重要なものを失うことになります。
本当に問われるべきなのは、「外国人材」をどのように「管理」するかではありません。人口減少社会のなかで、外国人住民を単なる労働力としてではなく、地域社会の構成員として位置づけ、誰もが活躍できる社会をどのように構築するのかという問いです。「多文化共生」の周縁化という現象は、日本社会がいま直面している制度的な空隙、外国人住民の権利擁護の脆弱性、そして地域社会における相互変容の停滞を映し出す鏡でもあります。その意味で、私たちはいま改めて、自治体や市民社会が培ってきた「多文化共生」の理念の意義を問い直す必要があるのではないでしょうか。